●初出:月刊『潮』1995年1月号「市民講座」●執筆:坂本 衛
先日、レーガン元米大統領が自らアルツハイマー病であると公表して話題になりましたね。
この病気について、もっと知りたいのですが。
はい。世界一の長寿国となった日本では、高齢化にまつわるさまざまな問題が噴出しています。中でも、いわゆる「ぼけ」問題は、有吉佐和子の小説「恍惚の人」《こうこつのひと》がベストセラーになったように、以前から大きな関心を呼んでいます。
ぼけとは、脳に何らかの障害があって、もの忘れや判断力の低下が進み、日常生活に支障をきたすようになった状態のこと。おおむね六五歳以降に起こるものを老年期痴呆とか老人性痴呆といいます。
この病気は、脳血管性痴呆とアルツハイマー型痴呆の二つ(三つめに混合型を数えることもある)にわけられます。脳血管性とは、脳動脈硬化(脳の血管が硬化し流れにくくなる)、脳梗塞(脳の血管がつまる)や脳出血(脳の血管が破れる)の後遺症で発生するもの。一方、アルツハイマー病は、原因がはっきりしないのに脳の変性や萎縮が起こり、痴呆にいたります。
日本では、老人性痴呆の患者は約一〇〇万人で、その六割程度が脳血管性と考えられています。しかし最近、動脈硬化を促進させる高血圧や糖尿病などへの関心が高まり、脳梗塞や脳出血の予防や治療も進んできたため、脳血管性痴呆は減ってきました。その結果、アルツハイマー型痴呆の割合は増える傾向にあります。
アルツハイマー病は、
脳にどんな変化が起こるのですか?
人は年をとると誰でも、脳の老化によって頭の働きが鈍くなります。一〇〇歳になると九割の人がぼけてしまうともいいます。
そういう人の脳を死亡後に調べると、例外なく脳に老人斑と呼ばれるしみのようなものができ、アミロイドというたんぱく質の一種が付着しています。アミロイドは正常な人の脳でもできますが、普通は分解されます。それがアルツハイマー病患者の脳では分解されずに、どんどんたまっていってしまうのです。また、神経細胞が脱落したり、神経細胞が繊維のように固まった神経原線維変化がみられます。そして、これは五〇代や六〇代でアルツハイマー病と診断された人の脳と同じなのです。
つまり、アルツハイマー病は、脳の老化現象(加齢変化)そのもので、しかも、それが若いころから急激に起こる病気だといえます。しかし、こうした脳の変化がなぜ起こるかは、まだはっきりわかっていません。たとえば、アミロイドだけが脳の神経をおかしくするのか、ほかの物質と一緒になって悪さするのかは、よくわかりません。
ぼけの症状には、
どのようなものがあるのですか?
家族がまずおかしいなと思うのは、記銘障害(もの忘れ)でしょう。最近のこと、場合によってはついさっき食べたり聞いたりしたことも忘れてしまいます。駅から家までの慣れた道に迷う、トイレの場所がわからずまごつく、部屋から出られずうろうろするという症状(空間失見当)も出ます。また、ハサミが何をする道具かわからなくなったり、「そのコップを取って」という簡単な指図にも、どうしてよいかわからなくなります。
それでも、応対や感情の反応はまともで、忘れたりできなかったりしたことを、困惑したりすまながったりします。直前のことは忘れても昔の記憶は保たれており、鏡の中に子供時代の家族がいると信じて話しかけたりもします。
病気が進むと、親しい人や家族の顔もわからなくなったり、羞恥心や親愛の情などが失われていきます。人格の荒廃が進み、まともな行動が一切できなくなる場合もあります。
治る可能性は
まったくないのでしょうか?
先程も述べたように、脳の老化が急激に起こるので、「なぜ老いるか」という原因がはっきりしない以上、有効な予防も治療もできません。現時点では、発病後、数年から十数年で死にいたる可能性が高いといわざるをえないでしょう。
けれども、最近ではアルツハイマー病の研究が急速に進んでおり、原因を特定はできないものの、こんな仕組みで発病するのではという推測が盛んになされています。
たとえば、人間の体には遺伝子というものがあります。親子が似ているのは遺伝子が親から子に伝わるからです。アルツハイマー病には、その遺伝子が深くかかわっていることがわかってきました。ある遺伝子に突然変異が起こると発病するとか、ある特別の遺伝子をもつ人は普通の人と比べて一〇年や二〇年早く発病することがわかりました。免疫の反応を遅らせるある種の薬が、病気の進行を遅らせるらしいこともわかってきました。
こうした研究がさらに進めば、アルツハイマー病の治療薬が登場したり、有効な予防法が確立される可能性は少なくないでしょう。
アルツハイマー病は、患者本人よりも
介護する家族が大変だと聞きますが?
そのとおりです。痴呆老人というのは、どこがが痛くて苦しむわけではありません。鏡にむかって長いこと話をしていても、本人にとっては幸せなのかもしれません。しかし、深刻なのは介護する家族です。症状は徐々に進みますから、十数年間も介護が必要になることすら珍しくないのです。その間の家族の精神的、肉体的、経済的な苦労は、体験してみなければわからないのではと思います。
専門家によると、介護の段階にもいくつかあるといいます。第一段階は「なぜあんなにしっかりしていた自分の親(あるいは夫、妻)が」という驚きと困惑の時期。病気についてもぼけの対処法についても、詳しいことがわからず混乱します。第二段階は、患者の不可解な言動を周囲がまともに受け取って、怒ったり対立したりする時期。第三段階はいい意味で介護者にあきらめの気持ちが生まれる時期。第四段階は受容期とでもいうか、周囲が病気も患者も受け入れて、ともに生きていく時期。この段階までに三〜四年かかり、最終段階にいたる前に挫折して家庭が崩壊したり、患者を施設に送り込んでよしとしてしまうケースもあります。
日本には、ぼけ老人の介護が長男の嫁だけに
重く課せられる風潮がありませんか?
残念ながら、そういった傾向があると思います。しかし、介護の負担は家族全員、さらには親戚全員で分かちあうべきだと思います。介護の四段階のうち第二段階あたりで介護を放棄してしまう例をみると、介護者が一人だけで追い詰められてしまったケースが多いのです。
とにかく、介護の悩みを一人で背負い込まないことです。「ぼけ老人を抱える家族の会」など患者の家族の会に相談すれば、ぼけ老人のあつかい方もわかります。公的機関の援助もできるだけ活用すべきです。役所の一般相談室に電話すれば、福祉係など窓口を教えてくれます。 また、私たちもアルツハイマー病患者に対する無知や偏見について、反省が必要だと思います。レーガン元大統領が勇気ある行動で示したように、この病気は誰がなってもおかしくない病気なのです。そうした患者を遠ざけようとしたり、家にいることを隠したりする社会は、それこそ病的な、不健全な社会だと思います。
高齢化社会が進むにつれて、アルツハイマー病患者の数が増えることは確実です。私たちの社会全体があたたかい目で患者を見守り、介護者の手助けをしたいものです。
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