更新:2008年8月16日
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ガン遺伝子治療

●初出:月刊『潮』1998年12月号「市民講座」●執筆:坂本 衛

Question新聞でガン遺伝子治療の記事を読みました。
どんなことか教えてください。

Answerガンの遺伝子治療について知るには、遺伝子の話から始めなければなりません。理科の授業のようになってしまいますが、しばらく辛抱してください。

 「子は親に顔が似る」とか「赤い花と白い花をかけ合わせると赤、白、赤白の花が咲く」というように、親の性質が子に受け継がれることは昔から知られていました。これを遺伝といい、遺伝をつかさどる物質を遺伝子と呼びます。今世紀半ばには、遺伝子本体はDNA(デオキシリボ核酸)というタンパク質で、アデニン、グアニン、シトシン、チミンという四つの化学物質が鎖のように連なり、しかも二重のらせん状になっていることがわかりました。

 DNAは六〇兆個もあるヒトの細胞すべての中に入っています。重さは一兆分の一グラムほどですが、長さは二メートルにもなります。長さや四つの物質の配列は違っても、ミミズの細胞にも、チューリップの細胞にも入っているのです。

 細胞が分裂するときは、DNAの二重の鎖がほどけ、それぞれが鋳型となって自らを補うもう1本の鎖を作ります。すると、もとと同じ二重らせんが二つできます。そこで細胞が分かれれば、もとと同じDNA入りの細胞が二つできるわけです。細胞でさまざまなタンパク質が作られるときも、DNAに基づいて作られます。

 ですから、遺伝子=DNAは、生物の体や機能に関するすべての情報を収めた「生命の設計図」といえるでしょう。

 いまでは、特定の酵素(タンパク質の一種)を使うと、ハサミやノリのように、DNAを切ったりつなげたりできます。この技術を利用して、DNAの配列を調べたり、DNAの断片をつないで新しいDNAを作ったりすること(遺伝子組み換え)が、遺伝子工学(バイオテクノロジー)と呼ばれる学問分野です。

 ところで、病気には、ウイルスが取りついて起こるインフルエンザのように後天的なもののほか、生まれつきとか親もそうだったというものがあります。こうした先天性の遺伝病は、遺伝子に原因があるということがわかってきました。そこで、遺伝子工学を駆使して遺伝子の欠陥を修復し、病気を治そうという考え方が出てきます。これが「遺伝子治療」なのです。

最初はADA欠損症で

Question遺伝子治療は、具体的には
どのようにおこなうのですか?

AnswerADA欠損症という大変珍しい病気があります。これは、ADAという酵素を作る遺伝子が、生まれつき欠けたり、傷ついていたりしている病気。エイズに似た免疫不全症状が出て、ちょっとした風邪を引いても命にかかわるという恐ろしい病気です。

 世界で初めての遺伝子治療は、アメリカで一九九〇年、ADA欠損症に悩む四歳の少女に対しておこなわれました。

 方法は、まず患者の血液を採取し、白血球の一種であるリンパ球を取り出します。次にリンパ球を培養し、その中へADA酵素を作る正常な遺伝子を入れてやります。これをさらに培養したあと、点滴で患者の血液に戻します。同じことを二〜三か月ごとに繰り返すのです。

 ADA酵素を作る正常な遺伝子は、ふつうの人ならDNAとしてもっているわけですが、そんなものを、目にも見えない患者のリンパ球の中にいったいどうやって入れるのでしょうか。 実は、レトロウイルスという特殊なウイルス(エイズウイルスや白血病ウイルスの仲間)を使います。ウイルスの遺伝子を切り貼りして、無害にし、ADA酵素を作る正常な遺伝子を乗せてやるのです。このウイルスとリンパ球を一緒にすると、リンパ球がウイルスに感染し、リンパ球に正常な遺伝子が入ります。細胞に入り込んで悪さをするというウイルスの性質を、逆手に取るわけです。こうして患者のリンパ球でADA酵素の生産が始まります。

遺伝子が介在するガンにも

Questionガンも、同じように遺伝子工学を駆使して治療
できないかというわけですね?

Answerええ。ガンは日本人の死因の第一位を占める難病です。その原因は、発ガン物質、ウイルス、放射線などさまざまにいわれてきました。現在では、発ガン物質やウイルスが、まず遺伝子の一部を狂わせ、その遺伝子がやがてガンを引き起こすと考えられています。

 ここ二〇年ほどの間に、ヒトのガンを引き起こす遺伝子(ガン遺伝子)が次々に見つかり、その数は一〇〇以上。ガン遺伝子は、もともと細胞の中で増殖や分化に関係する働きをもっています。ところが、これが発ガン物質、ウイルス、放射線などの作用で、突然変異を起こしたり、部分的に入れ替わったりすることがあります。するとその細胞は、ガン細胞として暴走し始めるわけです。また、ガン抑制遺伝子というものも見つかっています。これが突然変異で壊れても、ガンの引き金となります。

 ADA欠損症ではADA酵素を作る遺伝子に欠陥がありました。ガンではガン遺伝子やガン抑制遺伝子に欠陥があります。ならば、ガンの場合でも遺伝子治療が可能ではないかというのは、理屈には合っています。

 この一〇月に東大医科学研究所で始まったガン遺伝子治療は、腎臓ガンがあり、ほかの臓器への転移も進んだ六〇歳の男性に対するもの。

 治療の手順は、まず患者の右の腎臓を手術で摘出し、ガン細胞を培養します。これに、レトロウイルスを使って、ガン細胞に対する攻撃力を高める働きをもつ遺伝子を入れ込みます。そして、増殖しないよう放射線を照射したあと、注射によって患者の体内に戻します。注射は二週間ごと六回繰り返します。

 うまくいけば、遺伝子の入ったガン細胞がワクチンとして働き、ガンに対する免疫力が強まります。ADA欠損症の治療とよく似た方法であることが、おわかりでしょう。

まだまだ課題は山積

Question遺伝子治療は、
ガン対策の決定打になるでしょうか?

Answer残念ながらまだ試験的な治療、言い換えれば人体実験的な段階です。東大のケースも「ほかに治療法がない」からおこなうのです。遺伝子治療が、手術やレーザーによる切除、放射線照射、抗ガン剤投与など従来の治療法にとって代わると見る人はほとんどいません。というのはガンはできる場所や性質がきわめて多様で、しかも浸潤(周囲に浸入)や転移(移動して増殖)というやっかいな問題があり、さまざまな治療法を組み合わせる必要があるからです。

 ガン遺伝子治療には、越えなければならないハードルがいくつもあります。第一に、九〇年代以降アメリカでおこなわれた治療の成果がとても悪く、基礎的な研究がまだまだ不足していること。実は、一つの遺伝子が欠けたADA欠損症の遺伝子治療でも、成功例より失敗例のほうが多いのです。たくさんの遺伝子が複雑に関与し、しかもどんどん増殖を続けるガンの遺伝子治療は、ケタ違いに難しいといわれます。

 第二に、細胞に遺伝子を入れる「運び屋」としてウイルスが使われますが、これも問題。うまい具合にヒトの細胞にとどまり、効率よく遺伝子を作り続けるウイルスを探すのは、至難の技。無害化しても、突然変異を起こして悪さを始める恐れはあります。また、注射や点滴で体内に入れると、生殖細胞に入ってしまうことも心配。このウイルスは、日本製でなくアメリカからの輸入品、安全性の確認も海外の検査機関まかせというのですから、心細い話です。

 第三に、インフォームド・コンセント(患者への十分な説明に基づく同意)問題、患者のケアやカウンセリング問題、資金問題など、遺伝子治療をおこなう環境が整備されていません。

 ガン遺伝子治療は、実用化までもっと時間をかけて、慎重に、粘り強く研究を重ねるべきだと思います。

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