更新:2006年9月30日
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ヒトゲノム

●初出:月刊『潮』2003年7月号「市民講座」第207回●執筆:坂本 衛

ヒトゲノムとは?

Questionヒトゲノム解読が完了したというニュースを聞きました。
どういうことですか?

Answerゲノムとは「生物が生きていくために必要な遺伝子《いでんし》のセット」を意味する言葉。ヒトゲノムといえば、ヒトの遺伝子の全体(すべてを含む一組)を指します。まず、遺伝子について説明しておきましょう。

 子どもの顔が親とそっくりということがありますね。すると親の性質は、何らかの物質によって子に伝わると考えられます。この伝える物質を「遺伝子」と呼びます。学校でメンデルの遺伝の法則を習った記憶がありませんか。19世紀のメンデルは、遺伝子の正体は知りませんでしたが、エンドウの交配実験を長年続け、遺伝子というものが存在するはずだと最初に考えた学者です。

 1920年代には、遺伝子は細胞にあるヒモ状の物質「染色体」(色素に染まりやすいのでこう呼ぶ)の中に、一列に並んでいるとわかりました。ヒトの細胞の中には23対《つい》(同じものが2本で全46本)の染色体があります。父親の精子と母親の卵子には染色体が半数ずつ入り、受精すると46本に戻ります。この受精卵が分裂し成長して子になります。こうして子は両親から遺伝子を半数ずつ受け継ぐのです。

 1950年代に入ると、遺伝子の本体はDNA(デオキシリボ核酸)というタンパク質で、アデニン、グアニン、シトシン、チミンという四つの化学物質が鎖《くさり》のように連なり、しかも二重のらせん状になっていることがわかりました。DNAは60兆個もあるヒトの細胞すべての中に入っています。重さは1兆分の1グラムほどですが、つなぐと長さ2メートルにもなります。

 このヒトの遺伝子、つまりDNAの配列がどうなっているか解き明かすことは、生命科学の巨大なテーマ。これは「ヒトゲノム計画」と呼ばれ、1980年代後半からまずアメリカで始まり、90年には米、英、日本、仏、独、中が参加する国際プロジェクトとしてスタート。そして今年の4月、ついにヒトゲノムの解読が終了したという宣言が出されたのです。足かけ14年、千数百人の研究者が参加し、約3500億円が投じられた大事業でした。

DNA配列を解明する意味

QuestionDNAの配列を解き明かすことは、
なぜ重要なんでしょう?

AnswerDNAは、生物の体や機能に関する全情報を収めた「生命の設計図」ともいうべきものだからです。これを解明すれば、ヒトとは何かについての基本情報が手に入ります。

 比喩《ひゆ》的にいえば、ヒトのDNAによる設計図は、A、T、G、Cの4種類の文字をのべ30億個以上使って書かれています。DNA1本の一部を取り出すと「GCAGTGAGC……」という具合に並んでいるわけです。手足は全部で4本、それぞれ指は5本、目は二つ、まぶたは二重、髪の毛は黒といったことは、この並び方で決まります。

 細胞が分裂するときは、DNAの二重の鎖《くさり》がほどけて、それぞれが鋳型《いがた》となり、自らを補う鎖をつくります。すると、もとと同じ二重らせんが2組できますから、そこで細胞が分かれれば、もともとのDNAが入った細胞が二つになります。生物はこれを繰り返して成長します。

 細胞でさまざまなタンパク質が合成されるときも、DNAに基づきます。この場合はDNAの鎖の一部がほどけて、対応する鎖をつくり、その新しい鎖が鋳型《いがた》となって周囲の物質を集め、タンパク質をつくります。唾液や胃液に含まれる消化酵素も、こうしてつくられます。お酒が飲めない人は、飲める人とDNAの一部が違い、アルコールを分解する酵素をあまりつくれなかったりします。

 このように生物のすべてを決めるDNA配列の解明は、生命科学や医学のあり方を革命的に変えてしまう突破口となる可能性があります。診断法、治療法、薬の種類などが劇的に変わるかもしれません。そんな期待を込めて世界中の科学者がヒトゲノム解読に参加しました。

遺伝子の種類はハエの二倍強

Questionヒトゲノム解読が終わって、
どんなことがわかりましたか?

Answer14年かけて「GCAGTGAGC……」という30億個分のリストが手に入ったのですが、いろいろと興味深い結果が出ました。

 DNAの並びの中で、本当に遺伝に関係する遺伝子の数は約3万個(種類)でした。

 これは10万個くらいと推定されていましたが、意外に少なく、ショウジョウバエがもつ遺伝子の2倍強。ハエよりずっと複雑で高等なはずと思っていたヒトが、DNAの主要部品を数えればせいぜい2倍というのは、ちょっと考えさせられますね。ヒトは少ない遺伝子をいろいろ使い分けて多様性を出しているようです。

 ヒトの遺伝子3万個のうち、4分の1は脊椎動物とだけ共通、残り4分の3はほかの多くの生物と共通ということもわかりました。チンパンジーとの違いはゲノムのたった1・23%だけで、残り98・77%は共通です。ヒト以外では細菌だけがもっている遺伝子も見つかり、これは体内に寄生していたものを取り込んだのだろうと考えられています。ヒトの個人同士の違いとなると「GCAGTGAGC……」の1000個に1個が違う程度。このDNAの違いが個人差というわけです。

ようやくスタートラインに

Questionこれからの課題は、
どんなことですか?

Answerヒトゲノム解読が完了したからほとんど終わりと思うのは、大きな間違いです。リストというか、全体の地図づくりが終わっただけで、その地図を使って細かいところを調べていくのはこれからの作業。この意味ではヒトゲノムの解明は、ようやくスタートラインに立った段階ともいえます。たとえば、3万個の遺伝子のうち3分の1については、どんな機能があるのかまるでわかっていません。

 もちろん、ガンに関係する(引き起こしたり抑制したりする)遺伝子、老化に関係する遺伝子、アルツハイマー病に関係する遺伝子、白内障に関係する遺伝子などは続々と見つかっています。遺伝子を調べてガンになりやすいと診断し予防する、遺伝子を調べて一人ひとりに効果的な薬を処方する(オーダーメイド治療)なども期待はできます。ただし、あまり過剰に期待するのはどうでしょうか。ある研究者は、「ガン治療がいくら発展しても、セッケンがもたらした平均寿命の伸びに及ばない」といいます。この言葉はよくかみしめるべきだと思います。

 すべては遺伝子だけが決めるという「遺伝子決定論」も(本稿はわかりやすく話を進めるためそれに傾いていますが)、必ずしも正しい考え方ではありませんから、注意が必要です。

 今回のヒトゲノム計画は、日本の生命科学のあり方にも、大きな課題を残しました。これについても最後に触れておきましょう。

 30億個の情報のうち解明した量を国別にみると、米59%、英31%に対して、日本は6%でした。実はヒトゲノム計画を最初に提唱したのは日本人、解読装置の開発に大いに貢献したのも日本人(日本メーカー)。しかし、役所や大学の壁によって装置の特許は取れず、硬直した予算主義によって3500億円のうち130億円程度しか出せずという具合で、6%という残念な結果となったのです。こうした基礎研究は、のちの応用研究、つまりビジネス分野に大きく響きます。米英と比べて後手に回った日本は、生命科学戦略の立て直しが必要でしょう。

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