更新:2008年8月6日
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ヒトゲノム計画

●初出:月刊『潮』2000年3月号「市民講座」●執筆:坂本 衛

Question「ヒトゲノム計画」というものが進んでいるそうですね。
どんな計画ですか?

Answer「ゲノム」とは「遺伝子と染色体」を意味する造語です。これを説明すると、どうしても理科の授業のようになってしまいますが、ちょっと辛抱してください。

 「子は親に顔が似る」というように、親の性質が子に受け継がれることは昔からよく知られていました。これを遺伝といい、生物の体内にあって遺伝をつかさどる物質を「遺伝子」と呼びます。

 一方、分裂する生物の細胞を調べると、ある色素によく染まるヒモ状のものを観察できます。これを「染色体」と呼びます。ヒトには二三対(同じもの二本ずつで四六本)の染色体があり、イヌは三九対、ソラマメは六対です。生殖細胞(精子と卵子)には半数の染色体が入り、受精によって元の数に戻ると同時に、両親から遺伝子を半数ずつ受け継ぎます。

 一九二〇年代には、遺伝子は染色体の中に線状に並んでいることがわかってきました。ゲノムという言葉が生まれたのはその頃で、「生物が生きていくために必要な遺伝子または染色体の一組」という意味で使われます。

 一九五〇年代に入ると、遺伝子の本体はDNA(デオキシリボ核酸)というタンパク質で、アデニン、グアニン、シトシン、チミンという四つの化学物質が鎖のように連なり、しかも二重のらせん状をしていることがわかりました。DNAは六〇兆個もあるヒトの細胞すべての中に入っています。重さは一兆分の一グラムほどですが、つなぐと長さ二メートルにもなります。

 「ヒトゲノム計画」とは、こうしたヒトの遺伝子、つまりDNAの配列がどうなっているかを解き明かす世界的な計画のこと。一九八〇年代後半からアメリカで始まり、イギリスや日本なども協力して解析を進めています。

DNAは生物の設計図

QuestionDNAは、細胞の中で
どのような働きをしているのですか?

AnswerDNAを作る四つの物質(これを塩基といい、実際は糖とリン酸のつくる鎖に塩基が結合していますが、面倒な話は省きましょう)を頭文字のA、G、C、Tで表してみます。

 いま、DNA一本がたとえばGCAGTGAGC……と並んでいるとします。すると、この鎖をつくる結合よりも弱い力でAとT、GとCが結合するのです。そこで、この鎖に対応してCGTCACTCG……というもう一本ができます。この二本が対になり、ねじれてより合わさっているのがDNAの二重らせんです。

 細胞が分裂するときは、DNAの二重の鎖がほどけ、それぞれが鋳型《いがた》となって自らを補うもう一本の鎖をつくります。すると、もとと同じ二重らせんが二組できます(DNAの複製)。そこで細胞が分かれれば、もとと同じDNAが入った細胞が二つできます。

 細胞でさまざまなタンパク質が合成されるときも、DNAに基づいています。この場合はDNAの鎖の一部がほどけ、それに対応するRNAという鎖ができます(DNAの転写)。これが鋳型となり周囲の物質を集めて、タンパク質をつくります。

 つまり、生物が分裂を繰り返して成長するのも、生物の体を形成するタンパク質をつくるのも、すべてGCAGTGAGC……という配列によって決まってきます。手足は合わせて四本でそれぞれ指五本ずつ、目は二つでまぶたは二重といったことも、DNAのどこかにA、G、C、Tという四種類の記号を用いた情報として蓄えられているわけです。

 ですからDNAは、生物の体や機能に関するすべての情報を収めた「生命の設計図」ともいえるでしょう。比喩的にいえば、ヒトのDNAによる設計図は、A、T、G、Cの四種類の文字をのべ三十数億個も使って書かれています。これを全部読み、GCAGTGAGC……というような配列をすべて明らかにするのが、ヒトゲノム計画の目標です。

医療が劇的に変わる?

QuestionDNAの配列がわかると、
私たちにどんなメリットがあるのでしょう?

Answer生命科学や医学において、さまざまな物事が革命的に変わる可能性があります。

 DNAのうち、GCAGTGAGC……という文字数にして数千ほどの一連のつながりが、一つの遺伝子と考えられます。そして、ガンに関係する(ガンを引き起こしたり抑制したりする)遺伝子、老化に関係する遺伝子、アルツハイマー病に関係する遺伝子、白内障に関係する遺伝子などが、続々と見つかっています。

 日本人の死因第一位を占める難病のガンは、発ガン物質、ウイルス、放射線などさまざまな原因がいわれる一方、ガンが多い家系があることから遺伝に関係すると考えられてきました。現在では、発ガン物質やウイルスが、まず遺伝子の一部を狂わせ、その遺伝子がやがてガンを引き起こすと考えられています。

 ですからヒトゲノム計画が完成すると、遺伝子診断によってガンになりやすいという診断がつき、効果的な予防や適切な治療ができる可能性があります。発症のメカニズムもわかり、治療法や治療薬の開発にも役立ちます。糖尿病や高血圧などの生活習慣病、特定の遺伝子がないために起こる遺伝病についても同様です。遺伝子工学(バイオテクノロジー)を駆使して遺伝子の欠陥を修復し病気を治す遺伝子治療の分野でも、大きな前進が期待できるでしょう。

 さらに、最近注目されているのが「一塩基多型」(SNP)と呼ばれるDNAの多様性。例のGCAGTGAGC……という配列の数百から数千に一か所くらいの割合で、一文字だけ違っていることから個人差が生まれるのです。この個人差は、薬のきき方や副作用の有無に関係があると考えられています。

 ですから将来は、患者のSNPを診断したうえで適切な治療薬を出す「オーダーメイド医療」が一般化するかもしれません。

三月には全体像が明らかに

Question計画はどの程度
進んでいますか?

AnswerヒトのDNAの解読が終わるのは二〇〇五年ころというのが、当初の目標でした。しかしDNAチップと呼ばれる配列検査ツールの開発やコンピュータ技術の利用によって大幅に早まり、今年三月にも、ヒトゲノムのおおよその全体像が明らかにされる予定です。ただし、本当の解読終了は二〇〇三年とされています。

 なぜこうも急ぐかというと、アメリカの民間ベンチャー企業が、計画とは別に莫大な資金を投じて解析を進め、見つけた遺伝子を片っ端から特許出願し始めたから。特許で押さえられないうちに、大雑把でよいから配列を公開してしまおうというわけです。

Question誰の体内にもある遺伝子の特許を押さえる
というのは、ヘンな話ですね?

Answerまったくです。ただし、DNAの配列データだけでは特許の対象にはならないが、治療に役立つような遺伝子の機能まで解明してあれば特許を認めるというのが、国際的な常識になっているようです。その特許を使って製薬会社が新薬を開発すれば、大きな収入が見込めますから、民間企業がやっきになるわけです。

 ヒトゲノム計画は、研究成果をどのように人類共通の財産とするかという以外にも、さまざまな問題をはらんでいます。

 すでに実験室では遺伝子操作によって、巨大なマウス、賢いマウス、社交的な性格のマウスといったものが生まれています。同じことが人間でも可能になるかもしれず、人間改造はどこまで許されるかという問題があります。

 あるいは、SNPなど遺伝子情報は個人のプライバシーに属しますから、その保護も問題です。あるタイプの遺伝子を持っている人とは結婚しないとか、雇用や保険加入時に参考にするといった馬鹿げたことが始まりかねません。

 こうした倫理的側面は、もっと徹底的に議論されてしかるべきだと思います。

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