更新:2008年8月16日
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MRTA(トゥパク・アマル革命運動)

●初出:月刊『潮』1997年3月号「市民講座」●執筆:坂本 衛

Questionペルーの日本大使公邸人質事件が心配です。
事件を引き起こしたMRTAについて教えてください。

AnswerMRTAは、ペルーのテロ組織(犯人側にいわせれば革命組織)で、「トゥパク・アマル革命運動」の頭文字を取った略称です。

 トゥパク・アマルとは、十六世紀の後半スペインからやってきた征服者に抵抗して処刑されたインカの族長の名前。一七八〇年に、スペインに対する大反乱を指揮したインディオの指導者コンドルカンキも、スペイン側の計略にかかって処刑された後、トゥパク・アマルII世と呼ばれるようになりました。MRTAは、ペルーの民族運動を象徴する悲劇の英雄の名を冠しているわけです。

 MRTAは、一九八〇年にペルーの二つの左翼グループが連合して生まれました。八二年三月に現在の名を名乗り始め、八四年ころから銀行や警察に対するテロやゲリラ攻撃を活発化しました。爆弾テロのほか、裕福な実業家などを誘拐して身の代金を奪う事件をたびたび起こしており、これが主な資金源になっています。アメリカ国務省の報告書によると、九〇年に起こったペルーの米大使館爆弾テロ事件にも関与したとされています。

 この組織は、もとは都市の労働者を支持基盤にし、公務員やインテリにシンパが多い都市型ゲリラとされていました。しかし、一九八〇年代後半から九〇年代にかけて、中南米地域の内戦が収束にむかい、また九〇年七月にフジモリ大統領が就任してゲリラ撲滅に本腰を入れ始めると、急速に弱体化。都市を追われて、コカの栽培地として知られるペルー北東部のウワヤガ渓谷や中部のフニン地方に、活動拠点を移していました。九五年にはナンバー2が逮捕され、議員を人質にして指導者の奪還を狙う国会占拠計画も失敗。さらに力を失ったと考えられていたのです。

 現在、逮捕され刑務所に入っているMRTAのメンバーは五〇〇人以上で、残る武装勢力はせいぜい四〇〜五〇人といわれています。今回の人質事件は、壊滅寸前のMRTAが苦し紛れに最後の賭けに出たという見方が一般的です。

ペルー政情不安の背景

Questionペルーには、もう一つ有名なテロ組織があると聞きました。
こうしたテロ・ゲリラ組織が力をつけていった背景は何でしょう?

Answerスペインの植民地だったペルーは、一八二一年に独立宣言を出しています。

 しかし、独立は早かったものの、原住民(インディオ)・白人・混血(メスティソ)の混在による国民統合の遅れ、農水産物や鉱産物など一次産品輸出経済からの脱却の遅れ、周辺諸国との覇権争いを通じて軍の力が強まったことなどから、政治的にはつねに不安定でした。封建的な大地主、農・鉱産物の輸出を支配する資本家、軍部による少数支配に対抗して、急進的な左翼勢力も古くから活動しています。

 一九六八年十月には、軍部独裁によって「ペルー革命」と呼ばれる大改革が始まり、農地改革などが徹底して進められました。しかし、安定した新しい制度の確立までには至らず、八〇年の民政移管後も経済危機が続き、貧富の差は拡大。賃金引上げを要求するストライキや、極左ゲリラ活動が激化していきます。MRTAもこのころ登場したのです。

 MRTAと並んで有名なのは、哲学者のグスマン教授らが八〇年に結成した「センデロ・ルミノソ」(スペイン語で「輝ける道」)というテロ組織。MRTAが中南米各地のゲリラとの連携を図ったのに対し、毛沢東思想を掲げるセンデロ・ルミノソは、より閉鎖的で過激な武装闘争を展開。闘争に非協力的な住民を虐殺したり、九一年には国際協力事業団が派遣した日本人農業技術者三名を殺害するなどしています。

 しかし、MRTA同様フジモリ政権の撲滅作戦の対象となり、九二年にグスマンが逮捕されてからは、これも急速に勢力が衰えました。

日本が狙らわれたわけ

QuestionMRTAは、わざわざ日本の大使公邸を狙ったように思います。
なぜでしょうか?

Answer犯人グループが日本大使館の関係者や日本企業の幹部を重要な人質として残していることから考えても、MRTAが、フジモリ大統領の背後に「経済大国・日本」の存在を見ていることは確かでしょう。

 MRTAやセンデロ・ルミソノに壊滅的な打撃を与えたのは、九〇年に政権についたフジモリ大統領。そしてフジモリ大統領は、熊本県からペルーに移住した日本人を両親とする日系二世で、ラモリーナ国立農科大学学長や国立大学協会長などを務めた、もとは農学者でした。

 しかし、MRTAが「フジモリ」と「日本」をある意味で同一視しているのは、フジモリ大統領が日系二世だから、という理由からだけではありません。

 それは、第一に、日本政府が事実上フジモリ政権を大きく支えているからであり、第二に、日本政府または日本企業から身の代金を引き出そうと考えているからです。MRTAは、日本を、フジモリ大統領と勝負し交渉する際の絶好の「切り札」と考えているのです。

 日本からペルーに対するODA(途上国むけの政府開発援助)はアメリカにつぎ第二位で、ペルーが受け取る援助額のほぼ二割(九四年)に当たります。また、フジモリ大統領は、九二年十一月に反政府テロ計画が発覚した際、日本大使公邸に一時避難したことがあります。ペルーの日系人社会も、九五年大統領選挙ではフジモリ候補を積極的に支持しています(九〇年の初当選のときは、対立候補が世界的に知られた人気作家で当選は難しいと思われたうえ、当選したとしても政治の不安定が続けば日系人社会全体に反感がむかうという懸念があり、積極的に応援しませんでした)。

 また、九二年五月に摘発されたMRTAのアジトからは、ペルー国内に駐在する日本企業の住所や業務内容などの資料が多数押収され、日本企業が当時から、テロや誘拐の対象になっていたことがわかります。

交渉はさらに長期化か?

Question今回の人質事件はどのようなかたちで
決着するでしょうか?

Answer日本大使公邸を襲撃し、数百人を人質にしたMRTAは、その後さみだれ式に人質を解放しましたが、相変わらず数十人の人質を残しています。これは、そもそも十数人の犯人では人質が多すぎるという理由から解放されたものと思われますから(犯人らは、解放した人びとの中にフジモリ大統領の母親がいたと後から報道で知り、悔しがったそうです)、犯人らが姿勢を軟化させたとは考えにくいと思います。

 しかし、フジモリ政権の粘り強い包囲作戦によって、犯人側が消耗し、打つ手が限られてきていることも確かでしょう。MRTA元幹部なども「組織は壊滅状態で、指導者を奪還したところで帰る場所もない。フジモリ政権と対話の糸口をつかみ、MRTAを政党など合法的な存在として認めよという要求が、せいぜいではないか」という見方を示しています。

 対して、「テロリストとは一切取り引きしない」と強硬だったフジモリ大統領も、九七年一月十一日のAP通信との会見では「(犯人側には)譲歩する用意があるようだ」と語っています。ペルー政府側は、人質が解放されれば犯人グループの第三国への出国も考慮するとしており、その出国を保証する「保証委員会」の人選も、カトリック司教、赤十字代表、カナダ大使などを入れて固まりつつあります。報道されていませんが、日本側がある程度の身の代金を負担することも検討されています。交渉はまだまだ長引くでしょうが、何とか流血の事態は避けられるのではないかと思います。

 人質の健康状態が心配ですが、ペルー側にも日本政府にも、粘り強い慎重な対応を続けてほしいものです。

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