更新:2006年9月30日
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パレスチナ問題

●初出:月刊『潮』2002年1月号「市民講座」●執筆:坂本 衛

Question2001年9月のテロ事件の背景に、パレスチナ問題があると聞きました。
パレスチナについて知りたいのですが。

Answerパレスチナ(パレスティナ)は中東の地名です。北はレバノン、東はヨルダン川と死海を結ぶ線でシリアとヨルダン、南西はエジプトによって囲まれた細長い地域。ほぼ現在のイスラエルに当たり、その形はよく剣や銃にたとえられます。

 地図で確認してほしいのですが、この地域はアジア、アフリカ、ヨーロッパの境界に位置するまさに「文明の十字路」。メソポタミア文明とエジプト文明の交差点で、古来から異質な文化が溶け合う「るつぼ」でした。過去さまざまな集団が通り過ぎ、ある者はとどまって支配したり住民の一部となったり、文化の創造と破壊が繰り返されました。

 さまざまな勢力が競い合い、この地域を自分の「周辺」にしようとしたため、かえってこの地域が世界の「中心」になったと、しばしば指摘されます。パレスチナの中心都市であるエルサレムが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という世界的な三つの宗教の聖地となっていることは、この「世界の中心化」の象徴です。そのために今日まで紛争の種がつきないのが、パレスチナという地域なのです。

 ですから「日本」というような地域――海岸線でほかの国から隔絶され、単一民族の日本人だけが住み、単一言語の日本語だけが話され、日本文化だけが花開く地域といったイメージでこの地域をとらえるのは、大間違い。住んでいる人びと、話されている言葉、信じられている宗教、花開いている文化は、パレスチナという地域に固有の、固定したものではなく、長い歴史で繰り返された反発と融合、破壊と再建、略奪と分配などのダイナミックな結果なのだということを、まず理解してください。

さまざまな国が支配

Questionパレスチナの歴史を
教えてください。

Answer

 パレスチナは、メソポタミア文明が栄えたいわゆる「肥沃な三日月地帯」の一部と考えてもよく、古代からさまざまな集団が行き交いました。紀元前二千年紀のはじめには遊牧民のアブラハムが、その子孫にカナンの地(パレスチナのこと)を与えるという神の約束を受けたとされ、ユダヤ教が始まります。紀元前1000年ころにはユダヤ人のイスラエル王国が成立。旧約聖書に書かれているダビデ王、その子ソロモン王の繁栄を見ました。この王国の首都がエルサレムで、ソロモンはエルサレムのシオンの丘に神殿を建立しています。このときからエルサレムはユダヤ教の聖地となりました。

 王国は分裂ののち滅亡し、パレスチナはペルシアに支配されます。一時期アレクサンドロス大王に征服されましたが、結局はローマ帝国の支配下に入ってローマの属州になりました。紀元前後にはこの地にキリストが生まれキリスト教を開きます。キリストはエルサレムで「はりつけ」の刑に処され、このときからエルサレムはキリスト教の聖地となりました。

 その後(西)ローマ帝国、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)の支配をへて、七世紀はじめにはササン朝ペルシアによって占領されます。イスラム教を興したマホメット(ムハンマド)の死の直後の638年には、アラブ・イスラム軍がビザンティン軍を破り、以後この地域のアラブ支配とイスラム化が始まります。エルサレムにはマホメットが天に上った場所とされる「岩のドーム」が建てられ、このときからエルサレムはイスラム教の聖地となりました。

 さらにパレスチナは、ペルシア、エジプト、セルジューク朝トルコ、十字軍、シリアの支配をへて、1516年にオスマン帝国(トルコ)の支配下に入り、二十世紀に至ります。

絶え間ない紛争地域

Question さまざまな国に支配された、まさに交差点のような場所ですね。
今世紀に入ってからは?

Answer

 十九世紀後半には、オスマン支配に抵抗するアラブ民族運動が盛り上がり、ユダヤ人の間でもロシアの弾圧を逃れてパレスチナを目指す入植運動や、ユダヤ人国家の建設を目指すシオニズム運動が始まりました。一方、1869年にスエズ運河が開通するとパレスチナの戦略的な重要性が高まり、ヨーロッパの列強はその支配を狙います。一言でいえば列強諸国は、アラブ人にもユダヤ人にもいい顔をしつつ、結局は自国の利益だけを追求したわけです。

 イギリスは、第一次世界大戦中に「フサイン=マクマホン書簡」と呼ばれる文書を交わし、戦後のアラブ王国の独立を約束しました。また秘密裏に「サイクス=ピコ協定」を結び、イギリス、フランス、ロシア3国でオスマン帝国の領土の戦後の勢力範囲を取り決めました。さらに「バルフォア宣言」を出し、パレスチナにユダヤ人の民族的郷土(ナショナル・ホーム)を樹立する計画への支持を表明しました。

 つまりイギリスは、アラブ人とユダヤ人にまったく逆の約束をし、さらに双方を裏切る秘密の約束を列強と交わすという「三枚舌外交」を展開。その結果、第一次大戦が終わるとパレスチナはイギリスの委任統治下に入りました。

 その後、第二次世界大戦中にドイツでユダヤ人の大量虐殺(死者600万人)が起こり、パレスチナに逃れるユダヤ人が増加。ユダヤ人のイギリスに対する反乱、住んでいたアラブ人と入植したユダヤ人の対立も激化し、イギリスは戦後、パレスチナからの撤退を決めます。そして国際連合は、パレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割し、エルサレムを国連の管理地域にすることを決定しました。

 ところが、これが実行されないままユダヤ対アラブの内戦に突入。1948年、パレスチナにユダヤ人の国・イスラエルが建国され、独立宣言の翌日から第一次中東戦争が始まったのです。その後、イスラエルはアメリカの莫大な援助を受けて強大な軍事国家となり、第四次までの中東戦争にいずれも勝利。占領地や入植地を広げ、周囲のアラブ諸国と対峙しています。

パレスチナ国家の建設が必要

Question パレスチナに住んでいたアラブ人は
どうなったのですか?

Answer

現在もイスラエル国内で暮らしている者も少なくありません(イスラエル国民の2割はアラブ人)が、たび重なる戦争で「パレスチナ難民」として周辺に流出した人びとの数は360万人以上といわれています。この難民の支持を集めて武力闘争を始めたのがアラファト議長の率いるPLO(パレスチナ解放機構)です。

 1987年にはイスラエルが占領していたガザ地区で「インティファーダ」と呼ばれるアラブ人の抵抗運動が発生。投石に対して発砲するイスラエル兵士の映像に、イスラエルを非難する国際世論が強まりました。こうして91年の湾岸戦争以後、パレスチナの和平を模索する動きが本格化。96年には「パレスチナ暫定自治政府」が成立しました。その後もアメリカが仲介するなどして中東和平交渉が断続的に行われましたが、2000年9月にはイスラエルとパレスチナ側の衝突が起こっています。

 アラブ・イスラム諸国の間には、ユダヤ人のイスラエルだけがパレスチナに建国し、アラブ人は難民として追い出されたという思いが抜き難くあります。今回のテロ事件を起こしたとされるビンラディン一派も、これをアメリカを攻撃する理由に掲げています。パレスチナ難民を収容するパレスチナ国家を建設しなければ、紛争は解決しそうにありません。

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