更新:2006年9月30日
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竹島問題

●初出:月刊『潮』2006年7月号「市民講座」●執筆:坂本 衛

日韓とも「わが領土」

Question竹島問題で日韓がもめています。
どういうことなのですか?

Answer「竹島」(たけしま)は日本海にある島の名前です。隠岐《おき》諸島から北西に157キロ離れ、北緯37度14分、東経131度52分の位置にあります。男島(西島)と女島(東島)の二つの小島と数十の岩礁からなり、総面積はおよそ0・23平方キロ。これは東京の日比谷公園ほどの広さにすぎません。島は岩石でできており、川もありませんし、木も繁っていません。

 この小さな島は、日本と韓国(大韓民国)のやっかいな問題のタネとなっています。というのは竹島は、日本と韓国がいずれも「自分の国の領土だ」と主張しているからです。

 後で詳しく触れますが、竹島は歴史的にも、また国際法上も当然、日本の領土と考えられます。

 しかし、韓国は1952年(昭和27年)、李承晩《りしょうばん/イ・スンマン》大統領がいわゆる「李承晩ライン」を海上に一方的に設定し、竹島は韓国側であると主張。54年以降は警備隊員を竹島に常駐させ、宿舎や監視所といった施設を建設。97年には500トン級船舶が利用できる接岸施設を、98年には有人灯台を完成させるなど、既成事実を積み重ねています。

 2005年には、島根県議会が「竹島の日を定める条例案」を可決し、2月22日を県の「竹島の日」と決めましたが、これには韓国側が猛反発。

 最近では2006年4月、韓国が6月に開かれる国際会議で竹島周辺の海底地形の韓国名表記採用を提案する姿勢を見せたのに対抗し、日本が海上保安庁の測量船による竹島周辺の海洋調査を準備。韓国側は警備艇を配備し「拿捕《だほ》も辞さない」と強硬姿勢を見せつけました。この対立は、急遽開かれた日韓次官級会談で、韓国は表記提案をせず、日本も海洋調査をしないという妥協が図られました。

 しかし、「竹島問題」は、これまで長いことそうだったように一時棚上げにされただけで、根本的な問題は何一つ解決していません。

歴史的には日本領

Question竹島は歴史的に見て日本の領土だ
という根拠を教えてください。

Answer竹島が発見された正確な年代は、はっきりしません。対馬と違って日本と朝鮮半島を結ぶルートからはちょっと外れ、定住にも不向きな小さな岩石島。ですからあまり関心が払われず、長い間、日韓どちらのものでもありませんでした。

 しかし、その存在は、遅くとも江戸時代の初期までには日本人に知られていました。竹島付近は、南からの対馬海流(暖流)と北からのリマン海流(寒流)の潮境《しおざかい》(潮目)で、魚介藻類の種類・数量ともに豊富な好漁場です。そこで、日本人は盛んにこの海域に出かけて魚を捕りました。

 ちょっと話がややこしいのですが、江戸の初期、山陰の漁民は現在の竹島を「松島」と呼び、そのさらに先にある朝鮮半島東岸沖の鬱陵島《うつりょうとう/ウルルンド》を「竹島」と呼んでいました。1618年(元和4年)、伯耆《ほうき》国(現・鳥取県)米子の大谷・村川両家は、江戸幕府から鬱陵島(当時の竹島)を拝領し、漁場を開拓しています。現在の竹島は、鬱陵島へ行く際の寄港地や漁労地でした。

 1692〜93年(元禄5〜6年)ころには朝鮮からの出漁が盛んとなり、幕府は対馬藩主の宗氏を通じて出漁禁止を申し入れ、拒絶されています。直後の1696年、幕府は鬱陵島への渡航を禁止し、これを放棄しました。しかし、竹島については日本の領土と考えて、渡航を禁じていません。

 1849年(嘉永2年)にフランスの捕鯨船リアンクール号が竹島をリアンクール岩と名づけると、以後は山陰の漁民も「リャンコ島」と呼ぶことが多かったようです。明治時代に入ると、日本と朝鮮の間に通商に関する規則ができ、多くの漁民が鬱陵島に行くようになりました。途中の寄港地だった竹島ではアワビやアシカなどの漁猟が行われました。

 1904年(明治37年)には、島根県民の中井養三郎が「リャンコ島領土編入並に貸下願」を内務・外務・農商務大臣に提出。これに応えて政府は1905年1月に「本邦所属」とする閣議決定をしました。さらに同年2月22日に島根県が告示を出し正式に竹島と命名。隠岐島司の所管とし、土地台帳への掲載や漁業権者からの土地使用料の徴収などを行っています。

 上の歴史は、江戸時代から竹島が日本の漁民に利用されてきたこと、そして近代国家としての日本が竹島を領土に編入したことを明確に示しています。

国際法上からも日本領

Question国際法上は、
どのように考えるべきでしょうか?

Answer国際法上は、「ある国家が、所有者のない土地を領有する意思で他国に先んじて占有(先占取得)すれば、その土地はその国家の領土になる」とされており、つまりは早い者勝ちです。

 竹島が発見された正確な年代は不明ですから、最初に発見したのは日本の漁民かもしれませんし、実は朝鮮の漁民かもしれません。朝鮮の漁民は、鬱陵島から足を伸ばし竹島を盛んに利用していたかもしれません。そうだとしても、それだけでは、国際法上は国の領土とは認められないわけです。

 竹島の朝鮮での呼び名「独島」ができたのは1881年とされ、後に灯台が置かれ、1906年には鬱陵郡守の報告書に「本部所属独島」と記述されています。しかし、これは日本が「本邦所属」と閣議決定した翌年でした。国際法上は、竹島は日本領土であるという主張への異論は少ないでしょう。

 もっとも韓国は、1905年は日韓併合(1910年の日本による朝鮮の植民地化)の直前であり、当時の朝鮮は事実上、日本に保護国化されていたから、竹島編入に異議申し立てができる状態ではなかったと反論しています。

 また韓国は、敗戦国・日本の政治上・行政上の権限を暫定的に停止する地域を指定した1946年1月のGHQ(連合軍総司令部)覚書に竹島が含まれると主張しますが、これも法的に見て、竹島が韓国領である根拠にはならないでしょう。GHQ覚書は政治上・行政上の権限を切り離しただけで、日本の領土帰属の最終的決定に関するものではないと明記されており、まして竹島を韓国領とするとは書いていないからです。同年6月のGHQ覚書で竹島が日本漁船の操業停止区域に指定されたことも、同様に領土についての取り決めではありません。

 日本が独立を回復した1951年のサンフランシスコ講和条約では、日本は済州島《チェジュド》・巨文島《コムンド》・欝陵島を含む朝鮮の独立を承認し、すべての権利、権原、請求権を放棄しましたが、ここでいう「朝鮮」に竹島が含まれないことも、はっきりしています。

冷静にねばり強く対応を

Questionでは日本は、竹島問題をどのように
解決していくべきですか?

Answer日本政府は、「韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではない」といっています。

 その通りですが、だからといって、たとえば戦争で竹島を取り戻すなどという乱暴なやり方は許されませんし、馬鹿げています。日本は、国際紛争を解決する手段としては永久に戦争を放棄したのですから、平和的な手段による解決をねばり強く模索するほか道にはありません。韓国政府の対日強硬路線には、国内向けのポーズという側面が強くあります。これに感情的に反応すべきではありません。

 最終的には、ハーグの国際司法裁判所に提訴して解決を図ることが望ましいと思われますが、これには当事者両国の同意が必要で、いまのところ韓国が拒否しています。日本は冷静に、時間をかけて、大人《おとな》の対応をしていくべきでしょう。

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