更新:2008年8月16日
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コソボ紛争

●初出:月刊『潮』1999年7月号「市民講座」●執筆:坂本 衛

QuestionNATO軍のユーゴ空爆が続いていますね。
そもそもなぜこの地域で、空爆の原因となる紛争が起こったのですか?

Answer問題となっているのは、ユーゴスラビアと、その一部であるコソボ自治州です。

 コソボにはアルバニア系(アルバニアはコソボの南西の隣国)の人々が多く(二〇〇万人の九割)住んでいましたが、ユーゴスラビア政府軍はこれを弾圧し排除しようとしました。このいわゆる「民族浄化」をやめさせるために、アメリカやヨーロッパ諸国を中心としたNATO軍がユーゴを攻撃している、という話になっています。

 しかし、ユーゴスラビアとコソボの紛争は、ここ何年かの間に生じたというもめごとではなく、その原因を考えるには長い歴史を溯らなければなりません。周辺のいくつかの国々も同様に深刻な問題をかかえています。現在「バルカン半島」と呼ばれているこの地域に、光を当ててみましょう。

バルカン半島は文明の十字路

Questionまず、バルカン半島の位置と
範囲から教えてください

Answerバルカン半島はヨーロッパの南東部にある半島で、西はアドリア海、南西はイオニア海、南東はエーゲ海、東は黒海によって囲まれています。北はヨーロッパを東西に流れるサバ川とドナウ川あたりまでです。

 ということは、アドリア海を隔ててイタリアと、イオニア海とエーゲ海の先の地中海を隔ててリビアやエジプトと、エーゲ海を隔ててトルコと、黒海を隔ててロシアやウクライナと、地続きの中央・東ヨーロッパと、それぞれ隣り合わせ。ですから、先史時代からさまざまな民族が往来し交錯した「文明の十字路」的な性格をもつ地域なのです。

 この半島に含まれる国は、ギリシア、ブルガリア、アルバニア、旧ユーゴスラビア(故チトー大統領が率いていたユーゴスラビア社会主義連邦共和国)、それにルーマニアの一部とトルコの一部です。

 このうち旧ユーゴスラビアが、東西冷戦の終結後に分裂し、スベロニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、新ユーゴスラビア、マケドニアという国になりました。さらに、ボスニア・ヘルツェゴビナは、ボスニア連邦とセルビア人共和国からなる「単一の国家」です。また、ユーゴスラビアは、セルビア、モンテネグロ、ボイボジナ自治州、コソボ自治州からなる「連邦国家」です。

 旧ユーゴスラビアは、面積が二五・五万平方キロメートルと日本の三分の二、一九八八年の国連推定人口が二三五六万人と日本の四分の一という小国。それが、さらに小さな国や地域に分裂し、内戦状態にまでエスカレートするケースがあるわけですから、私たち日本人にはちょっと理解しにくいかもしれません。

民族も宗教も言葉も違う

Questionどうして、そんなことになったのですか?
民族や宗教の違いでしょうか?

Answerたとえばマケドニアは、紀元前四世紀にギリシアやエジプトからインダス川に至る大帝国を築いたアレキサンダー大王の出身地。バルカン半島はそんな古代から文明の十字路でした。 この地域に、現在のユーゴスラビアにつながる「南スラブ諸族」が住み始めたのは、六世紀の末ころといわれています。ちなみに「ユーゴスラビア」とは「南スラブ人の国」という意味です。

 おもな南スラブ諸族は、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、マケドニア人、モンテネグロ人など。この人々が中世に、先住民族や周辺民族の影響を受けながら、言語や宗教面で異なった文化や国家をつくっていったのです。

 セルビア人とモンテネグロ人は、東方正教のうちセルビア正教会に続しています。これはビザンティン帝国(東ローマ帝国)のキリスト教会を起源とする一派です。マケドニア人も東方正教のうちマケドニア正教会に属します。ところがクロアチア人とスロベニア人はカトリック教徒です。また、南スラブ諸族の中に「ムスリム人」と呼ばれる独特の民族がありますが、これはオスマン・トルコ帝国がバルカン半島を支配した時代にイスラム化した南スラブ人の子孫たちなのです。

 これらの民族には、ほぼ民族の数と同じ言語があり、セルビア語とクロアチア語がよく似ている(一つの言語としてあつかわれる)以外は別々とされています。旧ユーゴスラビアの議会や裁判所では、ほぼ民族の数だけ通訳が必要でした。

 なお、すぐ隣に住んでいるアルバニア人は、南スラブ諸族とは別の古代イリュリア人(紀元前十世紀ころバルカン半島に住み始めた民族)の子孫とされ、こちらはイスラム教徒です。

「ヨーロッパの火薬庫」の歴史

Questionそんな別々の民族が、なぜユーゴスラビアという
一つの国をつくっていたのですか?

Answer中世に栄えたセルビア人の国、セルビア王国は、オスマン・トルコ帝国に攻められ、一三八九年の「コソボの戦い」に敗れて衰退。一五世紀には滅亡し、以後バルカン半島はオスマン・トルコ帝国に支配されます。

 一八世紀から一九世紀にかけて、バルカン半島に住む南スラブ人の最大の課題は、いかにしてオスマン・トルコの支配から脱却するかでした。そこで、独立を目指す民族運動を通じて各民族は連帯し、セルビア王国も復活します。ところが一九世紀後半になって、各民族が自治や独立を勝ち取ると、かえって民族間の摩擦が強まってしまいました。そこに、アジアやアフリカへの橋頭堡を確保したい列強が介入し、火に油を注ぎます。

 こうしてバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになり、一九一二〜一三年にはバルカン戦争、一九一四年には第一次世界大戦の引き金となった「サラエボ事件」(セルビア人によるオーストリア皇太子暗殺)も起こります。第一次大戦が終りボスニア・ヘルツェゴビナを支配していたオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊すると、セルビア王家のもと「セルビア人クロアチア人スロベニア人王国」が成立します。これが第二次世界大戦後、反ドイツ抵抗運動を指導したチトー大統領のもとで、ユーゴスラビアになったわけです。

 つまり、オスマン・トルコやヒットラーのドイツなど、バルカン半島に共通の敵が存在する場合には、この地域はなんとかまとまっています。チトーの社会主義時代も、戦後すぐにスターリンのソ連と決別しましたから、いわば東西両陣営ともに敵だったのです。しかし、その共通の敵が倒れると、もともと民族も宗教も違うため、細かくバラバラになってしまうのです。

民族主義が一気に噴出

Questionそのバラバラ現象が、東西冷戦の終結後に
一気に噴出してきたのですね?

Answerその通りです。超大国ソ連と社会主義というタガがはずれましたから。民族の名をいくつもあげましたが、実際には、各民族がうまく住み分けているわけではなく、複雑に混在しています。ですから紛争が絶えないのです。

 たとえばユーゴスラビアの隣のボスニア・ヘルツェゴビナでも、九二年以来三年半にわたってセルビア人対クロアチア人・ムスリム人の内戦が続き、二〇万人以上の死者と二七〇万人の難民が発生しました。九五年八月に米軍を中心とするNATO軍がセルビア人勢力を空爆し、彼らを交渉の席につかせた経緯があります。

 今回は、ユーゴスラビアのセルビア人勢力がアルバニア人の多いコソボを攻撃しました。なにしろコソボはセルビア人にとって対オスマン戦争の戦場となった一種の「聖地」。一方のアルバニア人は、セルビア人より早くバルカン半島に住みついたのは自分たちと考えています。NATOの空爆で、この歴史的な対立の火種が消えるとはとても思えません。

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