更新:2008年8月16日
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NATO(北大西洋条約機構)

●初出:月刊『潮』1999年6月号「市民講座」●執筆:坂本 衛

QuestionNATOが創設五〇周年を迎えたと聞きました。
これについて教えてください。

AnswerNATO(ナトー)とは、北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organizaition)の略称。北大西洋をはさんで向き合う北アメリカとヨーロッパの西側諸国が調印した北大西洋条約に基づいて設立された集団防衛機構のことです。

 第二次世界大戦が終わって四年目。ソ連と米国二つの超大国を中心とする東西両陣営の冷戦が激化した一九四九年四月、ベルギー、カナダ、デンマーク、フランス、アイスランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェー、ポルトガル、イギリス、アメリカの一二か国は、北大西洋条約に調印しました。その後、五二年にギリシアとトルコ、五五年に西ドイツ、八三年にスペインが加盟しています。

 北大西洋条約の最大の目的は、第五条に書かれた集団防衛(集団安全保障)。これは、加盟国に対する攻撃を全加盟国に対する攻撃とみなして、国連憲章第五一条で認められた個別的または集団的自衛権に基づき、軍事力の行使を含む必要な行動をとるということです。つまり、NATOとは北大西洋地域の西側諸国が結成した軍事同盟なのです。

 一方、NATOに対抗する東側の機構は、一九五五年に設立されたワルシャワ条約機構。それまではソ連が、東欧各国と二国間の友好・協力・相互援助条約を結んで西側に対抗してきましたが、西ドイツがNATOに加わったことに危惧を覚え、NATOにならって東ヨーロッパ全体の集団防衛機構を作ったわけです。

 これにはソ連、アルバニア、ブルガリア、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ポーランド、ルーマニアの八か国が参加しました。アルバニアは一九六八年のチェコ事件(「人間の顔をした社会主義」を実現しようとしたチェコの改革を、ソ連はじめ五か国の軍隊が武力で抑圧した事件)を機に脱退しました。

 なお、日本国憲法は集団的自衛権を認めていない(個別的自衛権はあるが集団的自衛権はない)というのが日本政府の立場であることは、覚えておいてください。日本は、仮にヨーロッパの一員だったとしても、憲法上の制約があるため、NATOにもワルシャワ条約機構にも入れないことになります。

加盟国はNATO軍を編成

QuestionNATOの実際の仕組みは、
どうなっているのですか?

Answerここでは、東西対立がまだ続いていた一九八〇年代のNATOの仕組みを概観します。

 NATOの最高機関は加盟国の閣僚で構成する「理事会」で、年二回開かれます。加盟国の主権と独立を尊重して、理事会のすべての決定は、全会一致が原則とされています。補助機関として「常任理事会」が置かれています。

 軍事問題については、加盟国の参謀総長で構成する「軍事委員会」が検討し、理事会に助言します。補助機関として将官クラスで構成する「常任軍事委員会」が置かれています。また、一八の非軍事的な委員会が設けられています。

 NATOは、加盟国の軍隊によって、ヨーロッパ全域、大西洋海上、英仏海峡、北米など地域別に編成されたNATO軍をもっており、NATOとしていつでも軍事行動をとることができます。この点は東側と異なります。ワルシャワ機構軍は実体は東ヨーロッパやソ連西部に展開するソ連軍で、何かあればそのつど各国軍隊が集められるという体制でした。

 NATO軍の戦略は二つ。一つは「柔軟反応戦略」で、通常戦争、限定的核戦争、全面的核戦争まで、あらゆる種類の戦争に柔軟かつ有効に対処できる軍事力をもつことで、侵略を抑止するもの。もう一つは「前方防衛戦略」で、これは東西ドイツ国境に兵力を集中させて防衛ラインを引き、侵略を抑止するものです。

 一九八四年の「ミリタリー・バランス」によると、NATO軍とワルシャワ条約機構軍の戦力は、総兵力で五〇二万人対六一七万人、戦車で二万両対五万両、航空機で一万二〇〇〇機対五八〇〇機などとなっていました。

冷戦終結で、役割に大きな変化

Questionその後、「ベルリンの壁」が壊され、ソ連という国も
なくなってしまいました。NATOはどうなったのですか?

Answer一九八九年のマルタ会談で東西冷戦の終結が宣言され、続くソ連・東ヨーロッパ社会主義体制の崩壊、軍事同盟の解体、東西ドイツの統一、全欧安保協力会議のパリ憲章における「不戦の誓い」など、世界情勢は激変しました。

 NATOが仮想敵としてきたソ連や東欧の社会主義体制も、ワルシャワ条約機構軍も、なくなってしまったわけですから、NATOが大きく役割を変えたのは当然です。

 一九九一年十一月にローマで開かれたNATO首脳会議では、冷戦終結後の新しいヨーロッパ情勢に対処するための二つの重要文書「新戦略概念」と「平和と協力に関するローマ宣言」が採択されました。

 「新戦略概念」は、柔軟反応戦略を抜本的に修正し、前方防衛戦略は放棄。米国の戦略核兵器と英仏の戦術核兵器は「同盟の安全に対する究極の保障」として残すものの、核兵器を大幅削減し、主力防衛軍、緊急時の展開軍、有事に派遣される増援軍の三部隊構成に戦力を再編するなどを打ち出しました。当時ヨーロッパにいた三四〇万人のNATO軍は、九五年までに半減される方向も決まりました。

 「平和と協力に関するローマ宣言」は、ソ連・東欧圏諸国の改革への全面的な支持と援助付与を宣言。各国外相とNATO外相との共同政治宣言づくりの提案、閣僚レベルの協議の場の新設、欧州安保協力会議の強化、軍備管理の強化などを打ち出しました。

 こうしたNATOの方向転換の背景には、ソ連の締め付けがなくなれば東西対立型の紛争は姿を消すが、返ってタガがはずれたぶん地域的な民族紛争、宗教紛争、国境紛争、ゲリラ闘争やテロリズムなどが噴出する恐れが強いという判断がありました。そして、実際にその通りになりました。

域外紛争への介入の成否は?

QuestionNATOによる
ユーゴ空爆ですね?

Answerユーゴのあるバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」といわれ、第一次大戦の引き金となったサラエボ事件(オーストリア皇太子暗殺)が起こった場所。紛争の火種はつきません。

 実は、ユーゴの隣のボスニアでは九二年以来三年半にわたって内戦が続き、二〇万人以上の死者と二七〇万人の難民が発生。九五年八月に米軍を中心とするNATO軍がセルビア人勢力を空爆し、彼らを交渉の席につかせ、九五年十二月に「デイトン和平合意」(交渉地はアメリカのデイトン空軍基地)によってようやく終息しました。

 今回は、ユーゴスラビア連邦政府が、連邦内で独立を目指すコソボ自治州のアルバニア系住民(アルバニアはコソボの隣国)を排除、弾圧しようとしたことが紛争のきっかけでした。すでにコソボでは人口の半分以上の一一〇万人が避難民となり、三〇万人以上が周辺国に流出したともいわれています。

 NATO空爆で難民の流出が一層加速された状況は、NATOにとってはまさに正念場。

 アメリカは、九九年四月二三日にワシントンで開かれるNATO五〇周年の首脳会議において、九一年の「新戦略概念」に代わって二十一世紀の新しい米欧同盟のあり方を規定する「新戦略概念」を採択する予定です。その内容は「域外紛争」への介入、「大量破壊兵器やテロ」の対策へと、NATOの任務を広げるもの。この二つが、ソ連なき後のNATOの「敵」というわけです。そして、コソボは域外紛争への介入のテストケース。これに失敗すればNATOの二十一世紀戦略が揺らぎかねず、しばらくコソボからは目が離せません。

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